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 無双力士雷電為右衛門

ふるさと滋野

 無双力士雷電為右衛門

郷土の英雄である雷電為右衛門について図書館でパンフレットをいただきま
した。以下に掲載させていただきます。

 1、生いたち

雷電.jpg

天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和4年
(1767)信濃国小県郡大石村(現在東御市
滋野乙)に生まれた。父は半右衛門、母をけん
といった。幼名を太郎吉と称した。

太郎吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭
で据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴ととも
に激しい夕立がしてきた。太郎吉が母を風呂桶ご
とかかえて、家の土間に運び込んだという親孝行
な逸話が伝えられている。

また、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬を
ひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出
会ってしまった。

せまい道、よけることもできず困った太郎吉は、
荷を積んだ馬の足をもって目よりも高くさしあげ、
無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ」と殿様か
らおほめにあずかった。

 2、江戸相撲に入門

千曲川の対岸の長瀬村に上原源吾右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学
問好きで寺子屋師匠をするかたわら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の
世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源吾右衛門方に
寄食して学と技を磨いた。

折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れていた。そ
の時、太郎吉は浦風に相撲取りとしての才幹を見込まれ、天明4年(178
4)17才で出府、江戸相撲に入ることとなった。

恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政2年
(1790)には関脇に付出され優勝した。寛政7年には大関に昇進し、実
に16年27場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、9割6分2厘という
古今最高の勝率をあげた。

雷電には禁じられた手が3つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」
である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。

なお雷電は文化8年(1811)惜しまれつつ引退した。

 お抱え力士

山陰地方の親藩松江藩の殿様、松平平治郷(不昧公)は、雷電の力と技と学
徳の傑出していることも見て取り、天明8年(1787)松江藩に召し抱え
た。雷電は、8石に三人扶持を与えられ、お抱え力士として活躍したのであ
った。

彼は生涯雲州関為右衛門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退後は松
江藩相撲頭取を任ぜられた。松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅には雷
電の墓が今も残っているが、彼がいかに厚遇されたかを知るに十分である。

雷電は文政8年(1825)妻にみとられながら59才で没した。死後その
遺骨は分骨され故郷大石村の関家墓地に葬られているが、雷電の力にあやか
ろうという参拝者が絶えない。

 4、生家とその復原

33才の時、故郷大石村に帰った雷電は50両で自分の生家を建てなおし
た。もっとも、その家は、自分が少年時代に世話になった長瀬村の庄屋上原
家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがわれる。もっと
も、家の竣工祝いに、建築費と同額の50両を投じ大盤振舞したという。

昭和59年、雷電が建てたというその家も老朽化したので、関係者の協力で
生家の復元ができた。この家は土間に土俵が作られていることと、二階が桟
敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。

 5、雷電の碑建立

雷電没後、牧家一里塚のかたわらに、雷電の徳をしのんで碑が建立された。
明治維新の英傑佐久間象山は、雷電のために自ら文を選ぶと同時に雄渾な字
で書いているが、この雷電碑は全国でも名碑に数えられている。

封建身分制のきびしい時代に力士として世に出ることは、まさに出世であっ
て、庶民の果たし得ない夢をかなえたことで、その時代の英雄であったとい
えよう。

もっとも、雷電が今日なお多くの人々に追慕されるのは、相撲取りとして抜
群の力と技を持っていたほかに、学才に富み、かつ豊かな人間味を持ってい
たことが魅力であることは確かであろう。

      (出典:「無双力士雷電為右衛門」東御市教育委員会ほか)

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