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 巨峰栽培と私たちの暮らし

ふるさと滋野

 巨峰栽培と私たちの暮らし

 養蚕からぶどう栽培への転換

朝日農業賞受賞

わが家では父が教師で、母が田んぼと養蚕、そしてリンゴ栽培を行っていました。農業はもっぱら母の役割でした。すでに祖母は亡くなり祖父は病んで床から起き上がれない状況でした。母は祖父の介護のかたわら畑仕事を行っていました。父も教師のかたわら休日に畑に出ていました。りんごの消毒はもっぱら父の役割で、私はよく消毒の手伝いをさせられました。

生活のたしにするためわが家ではいろいろな家畜を飼っていました。牛、綿羊、鶏、うさぎ、ブタなどです。牛は大切な労働力でした。田起こしや代掻きの時には欠かせません。農作物を運ぶのも牛車でした。綿羊は春先に羊毛を刈りに来る方がいて臨時収入になりました。鶏は毎日卵を取るのが楽しみでした。こうした家畜の世話も母の仕事でした。私も時々手伝っていました。

このころは私たちの集落のほとんどは農業で生計を立てていました。父のように勤め人は珍しかったと思います。そんな中、当時出始めていた化学繊維に押され、貴重な収入源であった繭の価格がふるわず養蚕が曲がり角を迎えていました。昭和36年、小学校6年生の時、長野県のパイロット事業に応じて畑を交換分合しとっこ(桑の根っこ)を掘り起し広い道を通し、碁盤の目状に整備しました。そしてぶどうの棚を張り、まだ珍しかった巨峰栽培に着手しました。まだ栽培技術も確立しておらず、大変な苦労を積み重ねてきたことと思います。

それでも数年後には巨峰の出荷も本格化し、昭和50年には朝日新聞社主催の朝日農業賞を受賞するまでにいたりました。私の小学校、中学校時代は地域においても産業転換の時期でした。巨峰栽培はこの地域の農業に活力を与えてくれました。まだ生産も安定せず、収入も決して満足のいくものではありませんでしたがそれでも一息つけたのではないでしょうか。(写真は朝日農業賞授賞式に参列した先輩の皆さんです。すでに多くの方が鬼籍に入られています。)

 皇太子殿下のぶどう団地視察

皇太子殿下の視察

この時期に養蚕に見切りをつけ、新しいぶどう栽培に活路を見出した先人の皆様のご努力には頭の下がる思いです。

ぶどう団地の造成には根強い反対のもあったと思います。先祖伝来の畑を交換分合するなどその当時としてはご先祖様に対して申し訳ないという思いが強かったと思います。そんな人々を一人ひとり説得し、計画をまとめ上げていった功績は極めて大きなものがあります。

そんな先人たちの思いが結実してぶどう団地ができ、昭和38年には軽井沢に静養にこられていた皇太子殿下が視察に訪れていただいています。写真はさっそうとぶどう団地を歩かれる皇太子殿下です。前列右端は当時の百瀬町長です。

言ってみれば、衰退する養蚕にしがみつき衰退するばかりだった中屋敷の農業の大転換が行われたのです。これまでに経験のないぶどう栽培には不安でいっぱいだったことでしょう。しかし中屋敷の先輩たちはリーダーのもとに一致団結してこの難局を乗り切ったのです。

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