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 中屋敷はぶどう栽培に取り組んだ

 中屋敷はぶどう栽培に取り組んだ

中屋敷の集落の方々が昭和30年代にぶどう栽培に取り組み、15年かけて巨峰産地に育て上げたことはこれまでにもこのホームページに掲載してきました。今回、当時こうした取り組みを報じた新聞記事を入手しました。当時の方々が何を考え、悩み、どう行動したのか知ることのできる貴重な資料です。以下に掲載します。

 14年間の苦闘に感慨―朝日農業賞の中屋敷ぶどう組合

信濃毎日新聞(昭和51年2月1日)

県内屈指の巨峰栽培で知られる小県郡東部町の中屋敷ぶどう組合(有賀保組合長63人)が31日50年度の朝日農業賞中央審査会で全国7集団の一つに選ばれたが、県内で受賞した集団はこれで5番目。授賞式は2月7日、朝日新聞東京本社で行われる。

中屋敷地区にぶどう組合が生まれて今年で14年目。この間に麦、大豆などを中心に、やせた畑地をすっかりつぶして全国でも有名な巨峰栽培地域に育てあげてきただけに、60余人組合員は受賞の知らせに「これで中屋敷の巨峰が名実ともに真価を認められた」と大喜び、だが、同時にこれまでの苦労を思い出してか、だれもが感慨深げだった。巨峰を育ててきた人々の14年間をふりかえってみた。

「和と団結が実った」

<説得> 「何をするにも今の畑をつぶして交換分合しなければダメだ。それにはまずあなたが腹をきめることだ」-そう役場から言われて、当時区長の唐沢利知さん(57)は、半月もの間迷った。迷いぬいたあげく、一人で裏の桑畑にフラッと出た時、寿命のきた桑の黄色い枝が目に入った。「その瞬間、このままでは中屋敷は取り残されてしまうと実感した」と唐沢さんは言う。昭和30年代初め、世の中はすでに高度経済成長期にさしかかっていた。だが当時、中屋敷の人々の年収はやっと4、50万円にすぎなかった。

「このままでは生き残れない」と感じていた約10人を中心に、交換分合の具体案を煮詰めていった。だが、先祖伝来の土地を手放したがらない人が多いうえ、水田と違い桑などの永年作物の補償問題もからんで話し合いは3ヵ月間まったく空転、ぶどうを植えるまでにはさらに約2年もかかった。

初出荷 海へ廃棄処分

<出かせぎ> ぶどう栽培が実を結ぶまでの5年間、畑を失った人々は出かせぎや土方仕事で何とか収入を保ち、じっと待っていた。

昭和41年、初収穫のぶどう20箱を東京に送った。おりかえし東京から「海へ捨てるから1ケースにつき15円をもって上京しろ」と電話があった。何が何だかわからないまま上京した。当時の同組合販売部長小野沢尚三さん(52)は、そこで粒がすっかりとれた房をつきつけられ「腰が抜けるほど驚いてしまった」。原因は不完全なこん包のためだった。

初めての収入は全体でわずか7、80万円だった。だが組合員のだれもが「石にかじりついてでもぶどうを成功させなければ」とい気持ちで頑張ったという。翌年、収入は一挙に800万円。

<1年生> 幸いだったのは、全員がぶどう栽培の1年生だったことだ。農薬をどう調合したらいいかだれも知らなかった。だからこそ、県下で初めて共同防除を実施して効果をあげることができたともいえる。
品質管理も同じやり方だ。同組合では、組合が糖度計で各農家のぶどうを鑑定し、味が一定のレベルになるまで出荷を許可しない。

しかし、巨峰栽培農家が年々増える中で、巨峰の将来は必ずしもバラ色ではない。すでに東部町も農業技術者連絡協議会をつくり、ピオネ、ベニフジなど巨峰後の品種を試験栽培している。

それでも中屋敷の人々はこの14年間のぶどうとの戦いから大きな自信を得たと言う。一人の農民は「中屋敷の和と団結があれば必ず自立農家として生き残れるはず」と誇らしげに話していた。

中屋敷ぶどう組合― 49年度 1億2800万円
中屋敷のぶどう組合の設立は37年4月1日。現在は農家63戸が約38ヘクタールの農地に巨峰を栽培、49年の生産額は約1億2800万円。

今回の受賞は、▽畑地の交換分合の際、当時8割近くあった反対派の人々を集落をあげて話し合いで説得したこと ▽形、房、味などに組合独自の基準を作り、品質の向上に努めたこと ▽約6割が専業農家で、若者のリターンも多く集落も活気がある-などが認められた。

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