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 ふるさとは戦争とどうかかわったのか

ふるさと滋野

 ふるさとは戦争とどうかかわったのか

 滋野地区からの出征者と戦没者

太平洋戦争に出征し亡くなった方々について書いてみようと思います。東御市滋野地区はかつては滋野村でした。滋野地区における出征者数と戦没者数を「昭和戦陣録」という書物から下記に抜粋します。但し滋野地区は昭和の合併の際、芝生田(しぼうだ)、井子(いご)、糠地(ぬかじ)の3集落は小諸市と合併しておりますので除きます。

滋野村から695人の方が出征し、そのうち111人の方が亡くなられたのです。出征者のうち約16%にも及び、別府や赤岩では2割の方が亡くなられています。

集落名 出征者(人)  戦没者(人)


赤岩     98    19
片羽     70    16
櫻井    181    27
大石    114    13
中屋敷    82    13
別府     44     9
原口    104    16
聖       5     1


(資料:「昭和戦陣録」滋野村)

 「昭和戦陣録」とは何か

昭和戦陣録

この「昭和戦陣録」という小冊子は旧滋野村で発行したもので、お一人おひとりの方の家族構成や戦歴が詳細にわたって記されています。それによれば一つの家庭で二人三人の出征者がいることも珍しいことではありませんでした。多いお宅では5人の男兄弟を兵隊にとられ、お一人が亡くなっています。こんな地方の小さな村にも戦争は確実にやってきたのです。

この本は青いクロスの表紙で箱に入った全文230ページに及ぶ立派なものです。表題は「昭和戦陣録 滋野村」と墨書され「村会議長 大村忠男著」とされています。

このことからわかるようにこの本は単に有志によって編まれた本ではなく、当時の村議会議員22名、田口孝雄村長始め村の幹部8名、区の総代8名、一般から選ばれた編纂委員40名、計78名によって編集された公的な記録ともいえるでしょう。

  「昭和戦陣録」発刊にかける思い

この序文で「滋野村長 田口孝雄氏」は以下のようにその思いを綴っています。

「満州事変勃発より太平洋戦争終結に至るまでの十ヵ年の日本が歩んだ途、その批判は後世歴史家に任せるとするも、日本民族史上最大努力であり変化でもあった。

この特異の歴史の各頁についてわれわれ郷土滋野村の人々の中よりも直接参加し、百六十余の尊い人命が犠牲となりその外に七百名近くの若き人々が従軍された。われわれ村民は、講和締結を機とし、これ等の方々を慰労し、その努力を永遠に子孫に伝うるため、ささやかながら、ここに村議会の議決を経て『昭和戦陣録』を編纂して上梓した。

ここにこれを戦没の方々の霊前に供えそしてまた出征帰還の方々に贈って村民一同とともにその労に対し感謝を捧げたいと思う。各位××(判読できず)の編集不備を責めらるることなくその意を諒とせられて御高覧の上、先人の労苦を偲び、感謝の真心を捧げていただきたい。以って序とする」(原文は旧仮名遣い)

 遺族会長のことば

これに対して「滋野村遺族会長 滝沢好太郎氏」は下記のような序文を書いています。

「滋野村においては、村議会の議決により村経済多事なるにもかかわらず、多額の費用を以って近隣に未だ類例をみない『昭和戦陣録』を刊行された。これは満州事変より太平洋戦争に至るまでの本村出身者の戦没者ならびに出征帰還者の戦歴を登載したものである。顧みれば終戦後7ヵ年、吾々のいとし子、最愛の夫たちが、護国のために、幾百千里離れた見知らぬ異境の果てに散って行ったのであるが、公には慰めの言葉一つなくまことに寂しい限りであった。

しかるに、本村においては、さきに盛大なる戦没者慰霊祭を挙行していただき、いままた、ここに温情あふるる記念と慰めを贈っていただき、万感新たに胸中に湧き、さぞかし地下の霊も満足のことと察せられ喜びにたえない。ここに遺族会長として、滋野村のこの計画に感謝するとともに、感激

の一端を綴ってあいさつとしたい」(原文は旧仮名遣い)

いずれも日付は1952年(昭和27)年8月28日となっています。文章中にもあるように日米講和条約の締結が1951年9月8日、その発効が1952年4月28日であり、「昭和戦陣録」はこの発効をまって刊行されたものです。

しかし、当時は戦争の暗い記憶を払拭し新生日本の建設に向けて歩みだしたばかりです。そんな時、あらためて戦争の記憶を呼び覚まし、一人ひとりの戦歴に想いを寄せるという行為はなかなかできることではなかったと思います。ちまたには傷痍軍人もあふれていたでしょうが顧みる人とてなかったのではないでしょうか。

わが滋野村の先達たちはそんな中で戦争の「批判は後世史家に任せ」、従軍帰還者、戦没者を「慰労し、その努力を永遠に子孫に伝えるため」、昭和戦陣録を刊行したのです。

 私の父の戦歴

昭和戦陣録は「戦没者追想録」と「出征者追想録」に分かれ、それぞれ集落ごとに掲載されています。ちなみに私の父、若林平一郎はすでに亡くなって数年たちますが、以下のように記載されています。


陸軍歩兵上等兵 若林平一郎
 大正2年2月10日生

中屋敷若林末作氏長男に生る。
本郡長村青年学校教諭。
昭和19年5月12日金沢東部第49部隊に応召。5月17日門司にて乗船、釜山より牡丹江郊外414部隊転属、7月17日沖縄本島那覇市に上陸。台湾新竹台北等各地に転戦。
沖縄作戦において暗号手として直接間接に参加。終戦後の自活農園を拡充して経営主

任を務む。中国捕虜収容所に入り米軍輸送船により浦賀に上陸、21年1月復員す。


これをみると私の父は満州、沖縄を経由し、終戦は台湾で迎えたものと思われます。満州や沖縄にそのままいたら戦争によって命を落としていたかもしれません。そうしたら私も存在しません。まさに紙一重のところで生きて帰って来ることができたのです。

また終戦で捕虜になった後、自活農園を経営するなど、農業教師としての経験を生かした活躍をしているのは興味深いところです。こうしたごく一般の兵士一人ひとりの戦歴まで事細かに記した文書はあまり類例はないのではないでしょうか。

 善行証書

善行証書

わが家の「昭和戦陣禄」の本のページに「善行証書」なる紙片が挟まっていました。内容は以下の通りです。


善行証書 
長野県 歩兵第7連隊 
陸軍上等兵 若林平一郎
右、現役中品行方正勤務勉励学術技芸に熟達す、因ってこの証を付与す
 昭和 年 月 日
歩兵第7連隊長 陸軍大佐従五位勲三等
 朝生平四郎(原文は旧仮名遣い)


これによれば父は歩兵第7連隊に配属されていたようです。「昭和戦陣録」によれば414部隊となっていますが、部隊名は軍事機密でありその配置を秘匿するために414部隊という通称が使われたのです。例えば森村誠一が書いた小説「悪魔の飽食」に出てくる731部隊の正式名称は「関東軍防疫給水部本部」です。

歩兵第7連隊は歩兵第19連隊、歩兵第35連隊、山砲兵第9連隊、工兵第9連隊、輜重兵第9連隊、などとともに第9師団を構成していました。第7連隊の最後の司令官は確かに朝生平四郎大佐となっています。

 戦わなかった第9師団

調べてみると第9師団はもともと対ソ連戦を想定して満州の守りについていました。ところがサイパンが玉砕するなど南方戦線の激化に及んで、満州から引き抜き沖縄に移動させられました。沖縄守備の第32軍の予備兵力として司令部を初めは首里の県立師範学校に、その後南部の大里村に置かれました。

ところが11月17日になって台湾に移動しました。台湾の守備を固めるという名目でした。その前月10月10日に台湾空襲があり、12日には台湾沖航空戦がありました。

このためサイパン、テニアン、グアムの次の米軍の目標は台湾だと思われたのです。10月24日にはレイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈んでいます。

しかしアメリカは次の目標を沖縄に定め台湾を素通りしてしまいました。このことに対して当時大本営作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団を台湾に移動させたことに対し「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった」と述懐しているそうです。第9師団は武勲高い歴戦の師団でしたが太平洋戦争時、一度も戦うことがなかったそうです。

 まとめ

いずれにしても父は一度も戦火を交えることなく終戦を迎えました。もし満州にいればソ連軍との戦闘・シベリア抑留は避けられなかったでしょうし、沖縄にいれば玉砕を免れなかったでしょう。まさに運命の分かれ道の中で生き残ることができました。大本営にとっては一世一代の不覚かもしれませんが、父とわが家にとっては幸いでした。

父は31才で出征し33才で帰還を

果たし、翌年34才の時兄が生まれ、1年おいて36歳の時私が生まれました。父から台湾で終戦を迎えたこと、菜園を経営していたことは聞きましたが、どのような経緯で満州から台湾に行ったのかは聞いたことがなかったので、今回調べてみて初めてその事情が分かりました。

滋野村発行の「昭和戦陣録」を久しぶりに紐解いてみて、あらためてわが家と戦争との関わりを考えさせられました。

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